ジャパンプロデューサーインタビュー
Vol.190 [首長] 並木 心 東京都羽村市長 「積極的に国創りに参加してください」
Vol.190 積極的に国創りに参加してください
市長になろうと思った理由を教えてください。
私は10年間市議会議員を務め、議長にも就任させていただきました。当初は市長になろうとは考えてはおりませんでしたが、前市長ともよく相談し、市民の皆様からの要請に応え、議会経験を活かそうと立候補を決意しました。
政治の世界に入ろうと思ったきっかけはなんだったのでしょうか?
元々父が戦後の衆議院議員でしたから、政治という世界がどういうものなのかはなんとなく承知していました。しかし、父は仕事を家に持ち込まない人で、私たち子供には好きな道を進ませてくれたこともあり、社会人になったときに初めて就いた職は家庭裁判所の調査官という福祉の分野の仕事でした。以来、その職業に大変やりがいも感じていました。転機が訪れたのは、当時都議会議員を務められていた父の衆院選の選挙参謀だった方が、現職で亡くなられ時でした。その方を応援していた方々が父のことを覚えていてくださり、回り回って私に声を掛けていただいたのです。その後一年間考える猶予をいただいて、道半ばで亡くなられたその方への想いや、生まれ育った羽村のために、役に立つのであればと思うに至り、44才、第二の人生として政治家に転じることを決意しました。とはいえ何も知らぬままに政治の世界に入るわけにはいきませんので、まずは勉強をしようと地元の石川要三代議士に直談判して一年間私設秘書にしていただきました。その後は地方行政についても勉強するために、羽村町議会議員に就かせていただきました。
羽村市のことを教えて下さい。
この羽村市は私にとっては、生まれ育った大好きな街です。もちろん人口はそんなに多くないのですが、ゆるやかに成長し人口も5万人に達して合併ではなく、自力で市制を施行した市です。平成の大合併にも参加しなかったので、独自で羽村らしいまちづくりが今もできています。
羽村市をさかのぼると、元々は西多摩村という貧農地域でした。それでも、昔の人達は桑畑や酪農などいろんなことをして貧しさから脱しようと取り組んでいました。みんなで助け合い、一歩ずつ前進していこうという挑戦の気概のある風土が今の羽村市にも引き継がれています。
と同時に、羽村人としての繋がりも大変強く、青年団や今で言う町内会などの市民の方々の活動がとても盛んで、今でもOBの方々含めて盛んに活動されています。組織も時代が進むに連れてきちんと組織化されてきています。
市長と市民の距離は近いですか?
そうですね。羽村市の歴代の首長は「俺についてこい」というタイプのリーダーではなく、「みんなの代表としてがんばる」という意識をもって意見を聞くタイプが多いんです。昔から人が入れ替わることは少なかったので、大きな変化を求めるよりも羽村モンロー主義ともいえるような、自立して着々と事を進める風土が出来上がっていたのもそのような市長が生まれやすい要因の一つだと思います。平成の大合併の時代に合併の話が持ち上がったときも、時期尚早だという声や、そもそも必要ないという主張が市民の皆様から数多く聞かれたのが、合併を選択しなかった大きな要因でした。
市長としてのやりがいは何ですか?
羽村市は、平成の大合併の時にも独自の特色を残して独立した市として発展する道を選びました。なので、羽村市長としてのやりがいは、そうした独自性を武器に政策を進めることができることです。たとえば羽村市には動物公園があります。これは市が持つ公園の中にある動物園のような施設といった方が正しいかもしれません。財政が苦しくなったときは、贅沢だという声もあがりましたが、維持し続けました。自分が市長として就任している間は、そうした羽村らしさを大切にしたいと考えています。
市長が10~20代の頃はなにをされていましたか?
高校生の頃は甲子園を目指す野球少年でした。なので、正直にいってその頃は勉強そっちのけで練習に打ち込んでいましたね。部活を引退する高校3年生の時になって、福祉や社会保障に関心を持ち始めて、大学は日本社会事業大学へ進み、座学はもちろん実践を通じて福祉関係のことを学びました。その学業をいかし、家庭裁判所調査官の職に就き、主に非行少年と正面から向い合う仕事をしておりました。
その経験で今活きていることはありますか?
家庭裁判所にくるような若い人は、大概が警察のお世話になっている少年です。そこで思い知らされたのは、彼らは罰を逃れるために本当のことは言わないということです。そんな中で、私たちの仕事の本質は彼らの本音を見抜くことです。つまり、よい聴き手となると言うことですね。これは首長として活動するときも同じだと思っています。なので、市民や職員と接するときには問いと答えの間を長くするように気をつけています。そうすることで彼らの本音を理解し、マネジメントに反映するようにしています。
児童福祉の分野で若い人たちと長くふれあってきた経験から、今と昔の若者に違いを感じたことはありますか?
私は、児童・青少年の犯罪という点において、今も昔も大きな差はないと思います。件数もそれほどかわっていないでしょうし、犯罪が発生するメカニズムも変化していないように思えます。ただ、行政の子供への関わり方は大きく変化してきましたね。今では少し子供が不適合や不登校になると行政が出て行って親の肩代わりをしてしまいます。私は、親が子供にできることがまだまだあるように感じますね。一般的な生活からドロップアウトしてしまう子供たちの割合は、親がどこまで自分の生活をかけて保護者としての責任を果たしたかに如実に左右されます。今は法的にも親が教育できることが少なくなってきているのは、私には見直してく必要があるように思えますね。
今後の展望を教えてください。
市長としてのスタンドプレーではなくて、常識をモットーに、当たり前のことを当たり前にこなしていこうと思っています。無理して背伸びをした政策を進めても、結果として市民のためにならなければ意味はありません。
若者へのメッセージをお願いします。
若い人には積極的に国創りに参加していただきたいと思います。その中で留意してほしいのは、いかに土壌を形成するかということです。若い人が政治に関連するイベントを主催するときに集客に苦労するのは、その分野に関心を持つ土壌がないからです。とはいえ、短期的に勉強をするというだけでは関心を寄せる人があまりいないのも頷けますよね。なので、小学生、それも6歳、10歳、14歳というように幼い頃から定期的に選挙や政治について考える機会を与えてあげることが大事です。そうしたことまで考えて、ぜひ各々の信念を貫いてほしいですね。
■最終学歴 日本社会事業大学社会福祉学部児童福祉学科卒業
■略 歴
昭和43年 4月 東京家庭裁判所調査官
平成 2年 6月 元衆議院議員石川要三氏私設秘書
平成 3年 5月 羽村市(町)議会議員
平成11年 5月 羽村市議会議長
平成13年 4月 羽村市長