ジャパンプロデューサーインタビュー

Vol.157 [首長] 渡部 尚 東京都東村山市長 「自分達がフロンティアになるという思いで、日本をもっとクリエイティブに!」

市長

東京都東村山市長 渡部 尚
選挙区 東京都東村山市

 

市長になろうと思ったきっかけは何ですか?


中学の時に生徒会の副会長をやっていたのですが、市長になって中学時代の友人から「その時から将来は市長になるって言ってたよ」と言われて「えっ、そうだったかな?」と思ったことがあります(笑)。しかし、友達が覚えていると言うことは潜在的に市長になりたいという思いがあったんでしょうね。思い返せば私が中学生だったときは日本の経済が成長著しいときで、木造だった校舎が鉄筋コンクリートの校舎に建て替わっていったり、中央公民館や中央図書館といった公共施設が整備されていったりして、自分の街が発展していくのを目の当たりにしたのが影響したのかもしれません。
とはいえ、別段私は政治家になりたいと表だって言ってきた人間ではありません。大学では文学を学んでいて政治学を囓っていたということはありませんでしたし、就職してからも家族を養うことが第一でした。そんな私が市会議員を目指そうと思ったのは29歳の頃です。「このままずっとサラリーマンを続けていくのかな」という漠然とした思いもありましたし、当時は若い人が積極的に政治家になるのが珍しく、若い世代の声が政治や都市政策に反映されていなかったということもあって、市会議員を目指そうと決意しました。そこからは一念発起して、一生懸命選挙に打ち込み、両親の友人や地元の皆さんに助けられて初当選を果たすことができました。結果的に四期市議会議員として活動し、当時の最年少として41歳の時には市議会議長も務めさせていただきました。市長になりたいと思ったのはその頃からでしたね。市議会は立法機関として直接何かをするという性質のものではなく、条例の改廃や議会での発言などを通じて役割を全うするんです。なので、議長まで務めるほど市議会議員を務めると「議員としてやるべきことはやった」という思いと、「もっと自分の力を試したい」という熱意が沸き上がってきます。通常ですと市議会から都議会へ、そしてゆくゆくは国会議員になろうとするケースが多いと思うのですが、私の場合は東村山市政をよりよいものにしたいという想いが強くあったので、市長を目指したというわけです。



市長になられてからはどのようなことに打ち込まれてきましたか?


当選した直後は、前任の市長が進めていたまちづくりを途中でバトンタッチを受けましたので、それを完成するべく政策を展開していきました。そのなかでも苦労したのが、「東村山駅西口の再開発問題」です。私が当選した当時、市はきわめて厳しい財政状況下に置かれていました。そんな中で大規模な再開発事業を行うことに反対の声があがって紛糾するのは当然といえば当然です。タイムリーな話で言うとブラジルのような状態ですね。同国ではコンフェデレーションカップやワールドカップに向けて巨額の公共投資が行われる反面、国民は福祉や教育への充実を求めるという対立構造ができてしまっています。しかし東村山駅西口の再開発は当市の50年近い懸案でして、ここでやり遂げなければ二度と東村山駅の西口には駅前広場ができないと思って頑張りました。というわけで私の1期目としての課題は財政再建をしながらこれらのハード事業を完了させることでした。そのためにありとあらゆる行政改革をおこなってきました。給与構造改革で職員の給与を削ったり、健康保険料を適正化したりなど、「なにがなんでも立て直してやる」と奮起した結果、平成21年度からは黒字に転換することができましたし、東村山駅西口の再開発事業なども完成することができました。
2期目として現在は「バージョンアップ東村山」をキーワードに政策を進めています。今、地方政治の大きな課題として、少子高齢化と地方分権そして災害対策の向上が挙げられると思います。それらを実現するために、財政の無駄を削減するスリムアップ方式だけではなく、都市としての質を根本的に向上させる政策を実行していく所存です。



市議を4期務めていて気をつけていたことは何ですか?


私個人としては気をつけていたことはなかったように思えるんですが、皆さんには「昔から市全体のことを考えていたよね」と言っていただけます。市議会では、自分が代表を務める地域に予算を持ってくることが重視されます。地域の代表である以上、それは過剰にならない程度にはあってしかるべきだと思います。しかしその中で、市全体のことを考えて、市の質の向上につなげていくためにどうすればよいのかという視点を忘れないことも非常に大切なことだと私は考えていました。



市長を務める上での葛藤や苦労はありますか?


振り返ってみると、どの政策も厳しく辛い判断を迫られてきたなという思いはありますね。私の判断で何らかの我慢を強いられる方々が当然いらっしゃいます。たとえば、財政再建時の給与カットなどですね。公共施設の再生するために不要な施設を切り捨てた時に失われる雇用や地域の方々の拠り所もそうでしょう。しかし、やらなければ市が立ちゆかなくなってしまいますから、首長たるもの辛い決断を背負うことが責任だと考えています。



難しい課題を市民の方々に説明する際にはどのようなことに留意されていますか?


基本的情報をできるだけ共有することですね。私が市議会議員になった当時は、国も地方も「由らしむべし知らしむべからず」という風潮がありました。結果として夕張市が破綻してしまうなどの問題が出てきてしまったわけです。市長に就任した当時は、「行政は市民を不安がらせる情報を発信してはならない」というような雰囲気がありましたが、やはり未曾有の財政危機は市民や議員、職員と問題意識や危機感を共有しなければ乗り越えることはできませんので、積極的に情報を共有することを心がけてきました。また、政策や財政の現状だけではなく、市の抱える課題もしっかりと開示するように気をつけてもいましたね。



若者向けの施策は行っていますか?


残念ながらこれという具体的な施策は現時点ではありません。私は月に一度タウンミーティングを行っていますが、参加される方は高齢者の方々がやはり多数派です。なので若い方々の声が聞きたいと思い高校生との対話の場を設けたりもしましたが、まだまだ不十分ですね。しかし全く声が反映されていないわけではありません。市の最上位計画である第4次総合計画の策定の時には希望者を募って「東村山の未来を考える市民の会」を立ち上げたのですが、10代20代の方にもご参加いただいていますし、これからも市の方から積極的に若者の皆様に市政への参加を呼びかけていく所存です。



若者へのメッセージをお願いいたします。


これからの地域・日本・世界は若い皆さんが創っていくものです。なので、いろいろなことを勉強してほしいと思います。これは座学だけに絞らず、実地で経験を積むことも重視して様々なことにチャレンジしてほしいですね。
高度経済成長後の社会は、どこも大なり小なり少子高齢化などの問題が浮かび上がってきます。しかしものは考えようで、右肩上がりを前提としない社会システムや文化のデザインは今まで人類が直面したことがない課題です。自分たちがフロンティアマンになるんだという前向きな思考のもとで、多角的な視点から解決策を提示してくれれば、日本はもっとクリエイティブな国になると思います。





生年月日 昭和36年8月24日
学歴 茨城大学人文学部人文学科卒業
経歴 日本電気関連会社勤務
東村山市議会議員(平成3年~平成19年)
(民生産業委員長・厚生委員長等を歴任)
(市議会史上最年少議長就任(平成15年)
保護司
東村山市長(平成19年5月~)
座右の銘 諸行無常・諸法無我
好きな言葉 あちらこちら命がけ(坂口 安吾)
趣味 読書・釣り
※プロフィールはインタビュー時のものです。

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