ジャパンプロデューサーインタビュー
Vol.098 [首長] 山中 光茂 松阪市長 「『あれこれ考えているよりもまずは行動、それが重要です。』」
市長
松阪市長 山中 光茂
所属 松阪市長
選挙区 三重県松阪市
市長になろうと思ったきっかけを教えてください。
市長になろう、と積極的に思ったことはありませんでした。そういった動機ではなく、自分がこの先どういった生き方をしていくかということを考えた時の選択肢のひとつとして市長への道があったのです。
私は市長になる動機として、政治に関心が高まるように、投票率が上がるように、などといった考えではあまり意味がないように思います。政治というものは現場、現実だと思っています。政治家が国会で政治主導とは何かなどと議論になる今、若者に政治に興味を持てと言ったところで難しいでしょう。現実に何が起こっていて、何をやるべきか、ということを具体的に考えるのが大事ではないでしょうか。それを私は信条としています。
そして私が市長選に出た時にも、もちろん現場の問題はたくさんありました。そして、現場を大事に考えている中で、あまりに無関心であったり、しっかりと市のためを考えずにいる現状があったりという事実に直面し疑問をもっている中で、それではやってみてはどうか、という現場の声があるなかで立候補となりました。
市長としてやりがいを感じることはありますか?
市長、というと国会議員等と比べてメディアなどにおいてはあまり表立った活動がないというのが一般的な意見でしょう。ですが実際は市民に関わることであったり、行政に関わることであったり、地味ながらもこなす仕事はたくさんあります。その中で自分が責任を持って判断しなければならない、そういったことの責任感を持ちながら自分一人で決めていくよりも、市民と一緒になって物事を作り出していける時が一番やりがいを感じます。市民と関わって汗を流し取り組んでいくことの方に格段に達成感を感じます。
市の課題、住民に期待しているようなことはありますか?
私が市民の方にいつも言っている言葉としては、市民の方々が「役割と責任」を持つ、市長や政治家に甘えないように、ということです。その意味は、何か市として物事を決める際に、それに参加する責任も、参加しない責任もみなさんにもってほしいのです。
地域づくりに関しても、行政にやってほしいという願望ばかりでは無責任になってしまうこともあります。まず取り組む問題が自分達市民で力を合わせてやるべきことなのか、それとも市に依頼しなければならないものなのか、まずは考えてほしいと思います。 そうやって意識を変えていくことで、支出を減らしていくことにもきっと繋がるはずです。
松阪市という場所をどういった市にしていきたいですか?
市長が誰に代わっても、市民が自分達の思いで支えるまちというものにしたいと思っています。市長というのは最後に責任を取るべき立場のもので、本来市民はそこに頼ってしまっていてはいけないと思います。みなさんで頑張れるところは頑張る、ということが一番大事です。そして行政は後ろから支援すること、一番痛みの大きいところへどういった支援が出来るかというところで活躍する存在なのです。その意識をはっきりと持つというのが目指すまちづくりです。
市内でおすすめのスポットがあれば教えてください。
松阪牛の印象が強く、それ以外にあまりイメージはないと思いますが、松阪というところは歴史と文化に溢れている町です。国の指定史跡になっている松坂城跡や全国でも最大の武家屋敷である御城番屋敷などが残っているので、町歩きをすれば非常に歴史を感じられるまちです。最近ではその歴史を感じるための観光客も増えてきています。
また山、海、町と多様な価値観を築いている場所でもあります。山の方では冬に見られる樹氷も多くの方に親しまれています。
学生時代の思い出を聞かせてください。
主に勉強、アルバイト、孤児院でのボランティア、その三本柱でした。高校時代はあまり勉強に積極的ではありませんでしたが、大学生になってからは目標、目的がはっきりしていたので、授業にも真面目に出ていましたし、ダブルスクールにも通っていましたし、精力的に動いていたように思います。その代わり睡眠時間は3時間程度と短いものになってしまって、ハードで必死な毎日でした。
地球の裏側の問題に関わっていきたいという思いから当時は外交官になりたかったのですが、それを目指すにあたって言い訳をしたくなかったという意識がそのハードな生活に繋がっていたのだと思います。ただ、極限に近い生活から学ぶことは多く、当時の知識や経験が今に役立っていることはたくさんあります。
医師になろうと踏み切った思いや考えはどういったものですか?
先程もお伝えしたように元々は外交官になりたかったのですが、その当時は若さもあってか外務省へ入っても自分の描く実現したいことが思うようにいかないだろうと思ってしまったのです。それなら自分自身で技術を身につけ、NPO等で発展途上国の医療の現場について小さなことでもやっていけたら、というシンプルな思いで外務省の辞退に踏み切りました。
ですが、医師であろうと外交官であろうと政治家であろうと、その地球の裏側の問題に関わっていきたいという思いは変わることはありません。昔からの自分の原動力と言ってもいいでしょう。
若者に向けてのメッセージをお願いします。
あまり政治や夢という漠然としたものに関心を持とうとするよりは、自分が生きている現場や現実をいろいろと見て欲しいと思います。夢が無い、目標が無い、政治に関心を持たなくては、というはっきりしないものばかり追ってしまっていてはきっと行動につながりません。
現場を見れば、問題点や自分にできることが見えてくるはずです。いろいろな現場に触れ、自分にだけできる特別なことではなくて誰もがやれば出来るということでも、自分自身がやってみようと取り組んでいればその先の夢や行動が見えてくるでしょう。あれこれ考えているよりもまずは行動、それが重要です。
1998年 4月 群馬大学医学部医学科学士編入学
2000年 7月 経済的事情により同大学休学
2001年 4月 同大学復学
2003年 3月 群馬大学医学部医学科卒業<医師国家資格取得>
■略歴
2000年 7月 群馬大学医学部公衆衛生学教室非常勤勤務
2001年 3月 同職離職
2003年 4月 財団法人松下政経塾入塾
在学中に伊藤忠治衆議院議員事務所にて書生として研修
2004年 1月 NPO法人少年ケニアの友医療担当専門員となる
2004年 8月 ケニアにて医療担当専門員としてエイズプロジェクトを立ち上げ
2005年 5月 財団法人松下政経塾早期修了
2005年 6月 民主党三重県総支部連合会事務局勤務
2005年 8月 同連合会事務局次長となる
2005年 11月 同連合会事務局離職
2005年 12月 衆議院議員森本哲生私設秘書として民主党三重県第4区総支部勤務
2006年 3月 衆議院議員森本哲生政策担当秘書となる
(同年9月公職離職)
2006年 10月 民主党三重県第4区総支部離職
2007年 4月 三重県議会議員 当選
2009年 2月 松阪市長 就任