ジャパンプロデューサーインタビュー
Vol.047 [議会議員] 堀 宏行 福岡県議会議員 「人生が動いた!大学5年の怒涛の1日」
福岡県議会議員
福岡県議会 堀 宏行
政党 無所属
選挙区 福岡県
初当選年 1999年
当選回数 2回(県議選2回)
公式サイト
大学浪人時代に「政治家になろう」と決意したそうですが、そのときのことを教えて下さい。
自分が大学入試に失敗して浪人しているときに、ちょうどリクルート事件(昭和63年)があったんだよね。その時に、いわゆる利益分配政治に強い疑問を感じて、「この国の政治は何かおかしい!」って思って、自分が政治家になろうと決意した。お金のためじゃなくて、正しい政策を実現できる政治をしたいと思った。
高校時代は、起業家にあこがれて、自分の会社をつくりたいと思ったこともあったよ。漠然とだけど、ずっと「何か社会のために役立てる人間になりたい」と考えてた。
大学は憧れの早稲田に入って、最初は弁護士を目指してた。「まず霞ヶ関の役人になって、政治家に転身」っていうのが当時の政治家の流れだったんだけど、それって東大卒の人のルートなんだよね。けど自分は早稲田だし、親が政治家のエリートってわけでもない。「どうやって政治家になろうか」って考えたときに、まず弁護士になって、政治家になろうと思った。せっかく法学部に入ったんだし、法律って世の中の仕組みをきめる一番大事なベースだしね。
プロフィールを見ていて、少し疑問に思ったことがあったんですが、大学は4年間で普通には出ていないですよね?どんな大学生活だったんですか?
大学は結局5年間いたんだよね。弁護士目指してたから、大学4年のときに司法試験うけたんだけど、落ちちゃって。焦って、国家公務員1種の試験も受けたら受かったんだよね。
その後、官庁訪問っていう流れだったんだけど、官庁訪問で失敗した。やっぱり、最初から役人になりたかった訳じゃないし、面接で役人と話してても「なんか自分とは合わん!」って感じるんよ。そしたら案の定、失敗した。だから、もう1年大学行くことにしたんだよね。だから大学5年の頃は、悶々と勉強したり、将来のことについて「やっぱ今年も司法試験うけようかな、どうしようかな」とか悩んでた。
その後、国会議員の政策秘書という道を進むことになるんですが、そのいきさつは?
大学5年(1993年)の夏に衆議院選挙があって、それがいわゆる「日本新党ブーム」だったんだ。その時に、「政治家の政策立案能力を上げよう」っていう趣旨で、政策秘書の制度ができた。 結局、役人っていうのは自分の省庁のことしか考えとらんから、政治家がきちんと全体を見た政策提言をできないといけない。だから、この政策秘書の制度には魅力を感じた。国家1種受かってたから、試験免除だったしね。
それである日、知り合いで山田宏衆議院議員(現杉並区長)の秘書をやってる人から「山田議員がお前に会いたいって呼んでるよ」って連絡があったんだよね。だから「お、政策秘書の話かな」って期待して、国会の議員会館に行ったんよ。
そしたら、他の秘書の人は「彼、だれ?」とか言うし、山田議員本人も「ん?何しにきたの?」とか言うんだよね。
つまり、最初に連絡してきた秘書のほうは全然話を詰めずに、ただ俺を呼び出したんよ。
その後「彼、政策秘書になりたいらしいですよ」とかってようやく紹介されて、そしたら山田議員も「まあ、これからも議員会館に遊びにきてもいいよ」 って感じになったんよ。
「あれっ?話が違うよ・・・」って感じたけど、まあその日暇だったし、そのまま普通に議員会館に居残った。
ちょうどその日は国会開会中で、そのまま山田議員の奥さんに連れられて、国会見学に行ったんよ。
野党の質問とか首相の答弁とか、政策の論戦を初めて生で見て、本気で感動した。今まで「憧れ」だった政治家っていう仕事を、リアルに感じた。
「俺もこんな風に議会で質問したり、答弁したりしたい!」って強烈に思った。
国会見学行った後も、その日はそのまま議員会館にいて、新聞読んだりしてくつろいでたんよ。何か、居心地よくてね。例の政策秘書の件は、実は書類とかの締め切りが間近にせまってて、他に候補者がいなかったんだ。
そしたら、また山田議員に呼ばれて「まあ、これも何かの縁だから、彼を使いましょう」っていうことで、政策秘書になっちゃった。
その日のうちに地元の事務所にも連れて行かれて、そのままミーティングにも参加して。最後に「じゃあ、明日からお願いね!」って言われたんよ。
怒涛の1日でしたね。
ほんと、怒涛の1日だった。忘れられんね。
では、政策秘書として頑張る中で、最もつらかったことは?
街頭でビラ配りすることと、支持者訪問!山田事務所も、まあ最初は週3回でバイトみたいな感じだったんだけど、冬あたりから本格的に働きだして。毎朝7時半に駅に集合して街頭演説の横でビラ配りするわけよ。寒いし、つらいし、誰も受け取ってくれんし。精神的に結構きつかった。
まあ、今はもう慣れたけどね。支持者訪問も、最初はつらかった。福岡ならわりと玄関開けて話聞いてくれるけど、東京じゃ玄関開けてくれんもんね。「帰って下さい」とか普通に言われる。
ある日、「もうキツイや」と思って、公園でサボってたことがあったんよ。そしたら、公園でお母さんと子供が遊んでる姿が目に留まって。「こういう普通の人が、幸せに過ごせる社会をつくらないかん。こういう人達のために、頑張らないかんのやん。自分、今ここで何してるんだ?」って考えた。結局、役人は机の上の議論で仕事して、現場を知らない。自分が政治家になりたいのは、現場の声・市民の声を政策として通したいから。
それを、公園で遊ぶ親子の姿見ながら再確認した。それ以来、支持者訪問とかビラ配りとかをつらいと思ったり、サボることは一切なくなったね。
それから、自分は【政策秘書】として事務所にはいったんだけど、最初はパシリみたいなこととか雑用とかやらされて、不満に思ったときもあった。「俺は政策秘書なのに、パシリ??」みたいな。けど、きちんと、何でも全部頑張ることが大切だと思うようになった。一生懸命やってたら、絶対どこかで誰かが見ててくれてるから。
秘書時代には、色々つらいとこもあったようですが。
やっぱり、仕事しながら迷いもあった。「山田議員が今度の選挙落ちたら、自分どうしよう。無職やん。もう1年勉強して、司法試験受けようかな。もう一度、弁護士目指そうかな。」って悩みもした。
それでも政策秘書続けたのは、山田議員にすごい魅力を感じたからだね。
ある夜、新宿プリンスホテルのバーで一緒に飲んでたときに、山田議員がこう熱く語ったんよ。
「理想だけ述べても、虚しい。現実だけ見てても、つまらない。この現実の上に、理想の翼をつけるんだ!」って。これには感動したね。今でも心に残ってる。
さて、そうやって政策秘書を経験された後、福岡に帰ってきて28歳で福岡県議会に当選されたわけですが、堀議員は、今の政治で何が一番問題だと考えますか?
政治家の常識と、世の中の常識や社会の常識との間に差があること。行政もね。
時代の流れの方が政治や行政の動きよりはやい。国民の意識の変化を、役所や議会が気付いていない。情報化社会の中で、国民の求めるものが複雑化して、それについて行けてない。
議会でのつっこみの確かさと、ユーモアのセンスで有名な堀議員。今の儀式的議会をどう考えますか?
役所が気を回しすぎなんよ。「何か失礼があったらいかん」って。例えば、議会の質問で再質問するかどうかは、知事の答弁の内容を聞き終わらないと分からないのに、「どうしますか、再質問しますか」って途中で聞いてくる。
その理由が「議長が再質問の指名をしそびれたら、いけないから」って。そんなの、前から議長が見てたら、普通に分かるやん。この件は改善すべきだって、この間提案しましたよ。
なるほど、確かに気を使いすぎですね。では最後に、議員インターンを控えた学生に、人生の先輩としてひとことお願いします。
何でも、一生懸命頑張ること。無駄やったかどうかは、全部が終わってからでしかわからないから。
編集後記
初めて国会の議員会館に行った日、居心地がよかったからそのまま新聞読んでくつろいでた、と聞いた時には、なんという強心臓かと思い、ビックリしました。
街頭でのビラ配りや支持者訪問のつらさなどは、今後多くのインターン生が痛感していくことだと思いました。自分の秘書経験をもとにインターン生には「若い頃には、下積みを頑張って、人生の修行をしなさい」と説く堀議員。多くのインターン生に実感してほしいことです。(庄島香織)
1985.3 百道中学校卒業。
1988.3 修猷館高校卒業。
1989.4 早稲田大学法学部入学。
1994.3 早稲田大学法学部卒業。 国家公務員1種試験(上級職)に合格するが、官僚主導の政治からの決別には政治家や議会の政策立案能力が必要と痛感し、衆議院議員政策担当秘書に。山田宏元衆議院議員(現杉並区長)、鈴木淑夫元衆議院議員の政策担当秘書を務める。
1998.4 山崎広太郎氏(現福岡市長)の秘書に。
1999.4 福岡県議会議員に初当選。
2003.4 「さらなる改革」を訴え福岡県議会議員2期目当選。議会運営委員会理事、厚生環境委員会委員を務める。
2005 建築都市委員会副委員長。福岡県議会文化議員連盟事務局長を務める。