ジャパンプロデューサーインタビュー
Vol.041 [議会議員] 中原 好治 広島県議会議員 「広島から世界へ」
広島県議会議員
広島県議会 中原 好治
政党 無所属
選挙区 広島市南区
初当選年 1991年
当選回数 3回(市議選1回、県議選2回)
公式サイト
本日はよろしくお願いします。中原議員はいつ頃から、なぜ議員を目指されたのですか?
私は防衛大学校で、日本をどう守るのかということを学びました。
20年前は、安全保障とか、日本をどう守るのかについて非常に議論が未熟でした。それで逆に日本の政治は安全保障とか防衛の問題に凝縮されているのではないかと考えるようになり、政治に興味をもち始めました。
例えば防衛大学校は横須賀にあるんですが、当時は大学を出て横須賀の街に一歩出ると、制服を着た自衛隊員に対する目が非常に冷たかった。
なんでこうなんだろう、これは政治のひずみなんじゃないかと。
じゃあ実際に政治っていうのはどういうふうに機能してて、それを担っている議員っていうのはどういう人たちなんだろう。
果たして自分がなれるのか、ということを考え出したのは大学4年生の時ですね。
それ以前には将来何になりたいと考えていたのですか?
大学に入った時から、将来は自衛隊員が各国の大使館に軍事情報を集める役割をする、防衛駐在官になりたかったんです。それもターゲットはソ連。
だからソ連の文化・歴史・言語、言葉はもちろん、政治も含めてロシア研究っていうのをやったんですよ。
できれば将来はロシア駐在の防衛駐在官いうのがひとつ私の夢でしたね。
中原議員は松下政経塾ご出身でもありますが、松下政経塾で何を学び、それが今どういった場面で生かされていますか?
政策決定過程とか、いわゆる政治学で勉強するようなことももちろん学ぶけれども、そうじゃない部分で中心だったのが次の三つでしたね。
一つは自分の力で人生を切り開くということ。例えば政治家になるという目標に向かってどうやって自分の力で実現していくのか。
自分の頭で自分の将来を考えることが必要だということを学びましたね。
二つ目は、プレゼンテーション能力。今はごくごく当たり前になってるけど、まだ10年前はそういう考え方すらなかった。
自分のもっている物をフルに使って、伝えたいことを相手に伝えることが非常に重要な要素になっていたんだよね。まず伝えたいことは何で、どう自分のもってるものをフルに使って伝えるのか、そういうことがかなり訓練されたなぁ。
それから幸之助さんが言われていたんですが、人間は「運と愛嬌」だと。人生においてあらゆる場面で成功するか失敗するかは「運と愛嬌」にかかってる、という言葉を聞いたことがあったんです。
例えば、1つの組織の中で気に入られる。難しい言葉で言うと対人交渉能力って言うんかね。
人脈をどう作るか。なんぼ努力しても相手に気に入られないと人脈はできないんですね。それを周りの塾生とも切磋琢磨をしながら自分で養っていく。
三つ目は対人交渉能力ですね。
そういうものは政経塾で鍛えられたなぁと思いますね。それらが今活かされていることは「繰り返す」っていうこと。
結果はすぐには出ないけども、繰り返し繰り返し行っていけるかどうか。
これは試験勉強でも同じなんだけど、毎朝30分早く起きて勉強し続けられたら、かなりの成果があるんだけれども、朝30分早く起きて勉強する結果はその日には出ないからみんななかなかできない。政治活動で言うと、例えば街頭演説。それは定期的に続けていかないといけない。
そして街頭演説をする時には、その場が通行の邪魔にならないように、例えば自転車があったらキレイにするとか、そういう小さい積み重ねから始めないといけない。周りに対する気遣いと、そのことを継続していく大事さが今活かされてますね。
では中原議員はシンガポール留学、ロシアとの文化交流事業を積極的になされるなど、海外との接点を多く持たれていますが、世界の中で日本はどのように見られていると思いますか?
日本は国という観点でいうとまだまだ存在感がない。
月並みに言うとアメリカの属国的な位置付けですよ。
やはり独立した意志をもった、他の国にも手を差し伸べる、そういう国にならないといけないなと思いますね。
そういう日本の現状を踏まえて、世界の中で広島はどうあるべきだと思いますか?
広島はもっともっと世界に発信しないといけない。
例えばニューヨークでテロがあった。何千人っていう人がビルの中で亡くなった。アメリカの大統領は「けしからん」、「我々の貴重な友人たちが殺された、殺したやつらを退治するんだ」と言って、アフガニスタンに攻めて行った。
だけど広島は原子爆弾を落とされて、何千人じゃない、10万人の人間が殺された。それでも憎しみを乗り越えてきた。
この憎しみという感情を広島の人たちはそんなにもってないんでしょう。
それを乗り越えて、じゃあ「『平和』とは何か」を考え出した。
肉親や友達を殺された、それが相手に向かわずに、もっともっと平和にしないといけないんじゃないのっていう方向に、広島の思想っていうのはそっちに向いている。そういう憎悪を乗り越えたっていうことはすごいことですよ。そこにもっと焦点を当てて世界に発信していかないといけない。だからまさにニューヨークのテロの時なんかは広島の思想を伝えないといけない瞬間だったし、アメリカがアフガンに行くとか、イラクに攻め入るって言った時に、「広島見てよ!」っていうふうに、もっと世界に広島を発信したらよかったと思いますね。
そういう役割が広島にはある。広島には平和についてずっと考えてきた歴史があって、例えば人が殺されたことをどう克服してきたのか。この蓄積の部分を凝縮したものをどう発信していくか。精神論的な話になるけど、そこができないと広島の意味はないと思います。
10年後の日本の都市としての広島はどうであると思いますか?
これからは、「『都市』とは何か」っていう観点がないとダメなんだよ。
「都市」は、そこに住む人たちの舞台。その人1人1人の人生のドラマを演ずるための舞台なんだ。その舞台装置っていうのはもう十分なんよ。
例えば高速道路は十分整っているんです。ただ足りないのは、「子育て、教育、老後の福祉」。これがまだまだ不安なんです。
だから10年後の広島は、例えば東京・大阪と比べて、子育てがし易い。すばらしい教育がある。老後の生活がし易い。もっと人間に焦点を当てて、1人の人間の人生を本当に100%充実したものにする都市にしていかないと。
だから最低限のケアをできるような体制を整えて、ミニマムの部分を上げていって、もっともっとみんなが充実した人生が送れる都市にしていかないと。
そしてもう1つは平和。
広島に来たら、平和について考えられるぐらいの都市にしていかないといけない。
イメージ的にはイスラム教の人たちはメッカに巡礼に行くよね。何かあって自分の心が荒んだり、憎しみに燃えた人たちが、広島に来たら穏やかな心になれるようなそういう都市であり、人優先の都市になってほしいよね。
それでは中原議員にとってJapan Produceとは何ですか?
自分が変わるということだろうと思うんですよ。
自分が自分の力で変われるかどうか、そこが今の日本を変える1つのポイントでしょう。
今のままじゃいけないと思うのなら、自分の行動をまず変えないと。
色んな人たちが夢をもってその夢に向かって、努力をする。そのためには変わっていかないといけないわけでしょ。
要するにみんな1人1人が自らの力で変わることができる社会にしないといけない。それはチャレンジができて、自分の夢を実現できる社会、そういうふうな社会を作ることが今の日本を変えるということにつながるんじゃないかな。
だからもちろん私自身も変わらないといけないし、自分の意志も常に変わっていくために努力していかないといけない。
最後に若者へのメッセージをお願いします。
月並みだけどもっと勉強しないといけないよね。
1つのことを掘り下げる力、本物をつかむ力がないよね。例えば私は色んな海外に行く機会がありました。
日本は非常に豊かで経済的に繁栄していてすばらしい国なんだけれども、かたや食べる物がなく餓死している国もある。じゃあ我々の豊かさって何なんだ、ってことを考えないといけないんですよ。今この瞬間にも世界で餓死していく人のことに思いが至らない。それはそういう現実を知らないからなんですよ。もっと目を見開いて、そういう世界の現実を見ると「このままでいいのかな」っていうことを特に若い人たちには努力して苦労して、突き詰めて考えてもらいたいなぁ。
もっとこうわくわくドキドキするようなことができる世代なのだから、是非ひとつのことを突き詰めて考える力をつけてほしいね。
編集後記
「広島の人たちは憎悪の気持ちを世界平和に切り替えた。」という話を聞いて、私は平和都市広島の市民としてその意志を受け継いで、発信していく責務を感じました。
また中原議員はロシア語が堪能ということで、インタビュー後にロシア語で会話を少ししていただきました。
中原議員は発音がとっても良くてすばらしかったです。
1981 修道高校卒業。
1985 防衛大学校国際関係論学科を首席で卒業。
1986 (財)松下政経塾に第7期生として入塾。
1988 シンガポール国立大学経済学部に研究員として1年間留学。
1991 広島市議会議員に南区より初当選。
1999 広島県議会議員に無所属で初当選。
2000 広島大学大学院社会科学研究科マネジメント専攻入学。
2002 同大学大学院修士課程修了。
2003 広島県議会議員南区より無所属で2期目当選。