ジャパンプロデューサーインタビュー

Vol.025 [首長] 河内山 哲朗 柳井市市長 「ベンチャー自治体を目指します!」

柳井市市長

柳井市市長 河内山 哲朗
政党 柳井市市長
選挙区 山口県柳井市
初当選年 1993年
当選回数 4回(市長選4回)
公式サイト

 

本日は、貴重なお時間を割いていただいて有難うございます。当時34歳で全国最年少市長として当選されましたが、何故その年齢で立候補されたのですか?また、何故市長になろうと思われたのですか?


それは、いくつか理由があります。
松下政経塾に入って以降、大学を出てすぐ後の話ですから20代の頃からになるのかな?選挙、というか政治の世界に身をおいて、仕事をしたいという気持ちがありました。
「地方行政っていうのも地方の経営だ」と松下幸之助さんも言われておりましたが、僕はそういう地域経営というのをやりたいっていう気持ちが20代の後半くらいからあったんですよ。 だから、いずれは自分の生まれ育った郷土で市長をやりたいっていう気持ちがありました。
政治をやりたいっていう気持ちは20代そこそこ、地域経営をやりたいっていうのは20代の後半くらいからありました。
市長になれたのは、表現は悪いけど、まあ偶然の連続っていうか。
当時、私の前の市長さんが71歳を超えており、6選目も無投票だと言われていたんですよ。
選挙はないだろうって。
で、私の知り合いなんかが、「選挙にいずれ出る出るってあんた言ってるんだから、練習のつもりで、駄目でもともとで出たらどうだ。」って言うんですよ。
そんな簡単なもんでもないですけど、ひょうたんから駒って言葉があるように、まあ、人生っていうのは、そこが面白いっていうか、狙いに狙って、準備に準備を重ねても上手くいかないこともある。
偶然が重なるといい結果、思わぬ結果を生むこともあるんですよね。
「何故その年齢で?」っていうのは、年齢は関係ないんですよね。自分の想いとか志とかが大事かな。自分の想いとかは個人的にはしっかりしたものを持っていましたから、たまたま決断して立候補したのがその年齢だった。若い市長を目指そうと思ってやったわけじゃない。たまたま、当選したら若かっただけですね。



やっぱりその中で松下政経塾っていうのは、地域経営とかにも関わりたいと思ったきっかけになったのでしょうか?


大学生のときはどちらかといえば、政治家というよりも、自分の仕事として「ジャーナリストなんかいいかなぁ。」って思ってたんですよ。
政経塾に入って、これも偶然たる偶然ですけど、松下さんっていうのは偉いですね。日本っていうのは別に悪いところはないけれど、国家経営理念がない。「日本の国を、こうしたいんだ!」っていうビジョンっていうものがない。
その時々で、そのときの雰囲気って言ったらおかしいですけど、状況に応じて何か問題があれば、対処する。
言ってみれば、洋服のある部分が破れちゃったら繕うように、何か新しいものを「作ろう」っていう政治じゃなくて、どちらかっていうと問題が起こったらそこを「繕う」、あるいは何か問題が起こればくさい物にふたをする。政治家もそれから国民全体も「10年後20年後、日本をどういう国とかどういう社会にしていったりしたらいいのか」ということを明確に「こうだ」っていえないですよね。
どちらかというと、国がこう言うからこうする、住民が要望するからこうする。
もちろん民主主義の国だから当然なんですけど、そればっかりに右往左往してて経営のビジョンがないというものを、当時90歳に近い年齢の松下さんから言われましてね。僕も「やっぱりそうだなぁ。」と。
自分の力というのは限られているけれど、自分としては、そういうよくない部分は改善改革をして、みんなが、いい社会になったなとか、地域になったなって思えるような、そういった市の経営をやってみたいっていうのは政経塾の影響はあるでしょう。



それで国家の経営よりは市の経営を?


僕のちょうど仲良くしている神奈川の県知事になった松沢君なんかは、やっぱり日本の国っていうのはかくあるべき、と思って国会議員になったんだけども、あまりにも図体も大きいし、変わるスピードもね、それでは遅いからといって彼は神奈川県知事になった。
松沢君のもっと後輩の中田君っていう横浜の市長だって、彼は元国会議員やってて、「いや河内山さん。国会議員っていうのはね、やりがいっていうのに疑問があるから、日本でもっとも巨大な横浜の市長をやります。」って言ってきましたけどね。彼だってまったく僕と同じ気持ちだと思います。僕は国会議員をやらなかったけどね。
結局(国会議員は)、こうあるべきだと思ったら数を集めなきゃいけない。
さらに時間をかけてやっていくっていうことができる人でないと。
そういうのが悪いって言うわけじゃないんですけど、そういうのが得意な人と苦手な人がいて、僕はそういうのが苦手なんですよ。
柳井ぐらいですと、職員の数なんかも400くらいですし、全職員の顔もわかるしね。
市民だって、3万4000だから、知らない人も一杯いますけど、まあ知っているわけですよ。手を打ったら、結果っていうのも非常に早いですしね。
何年か前に、広島市と人事交流をやってね。広島市の職員に柳井市で仕事してもらって、柳井市の職員が広島市で仕事をしてもらう交流人事やったんです。
広島市から来た職員は任期終わって帰るときに、「前の日に企画課の中で雑談で話をしていることが、翌日には市長の耳に入る、非常に風通がよく、非常に早い。広島市ともなると政令指定都市で、なかなかそういうふうに行かない部分もある。」って話をしましたけどね。
やっぱり、大都市は大都市でいいところもあるし、そうでないところもそうでないところのよさもある。
これは企業だってそうですね。



今、風通しがいいとおっしゃられました。それは市長が10年間を通して変えてきたことだと思うのですが、市長在任約10年間をかけてやってきたことというのはどのようなことでしょうか?


政策面を言う前に、役所っていうのは人間が一番大事な資源なんですよね。
民間の企業と違ってここで原材料を加工するわけでもなければ、そういう『ものつくり』をやっているわけじゃなく、役所が良くなっているかどうか、行政が良くなっているかどうかというのは人間次第になってくるんですよ。
仕事をしようがしまいが、積極性があろうがなかろうが同じだというのが、公務員の安定性なんだけれど、とにかく、積極的な思考を作らないとだめだということです。
「柳井市役所というのはどういう職場ですか。」と聞かれたときには、「私たちはベンチャー自治体を目指しています。」と、こう言えるように。挑戦することは挑戦しましょう。思い切ってはじめることも、思い切ってやめることも、思い切って改革することもね。
そりゃあ躊躇しないで下さい。それで失敗したら市長が責任を取ります。今のところはあんまり失敗したことはないと思いますがね。
たとえば具体的にどんなところで起こっているかといいますと、何年か前からうちは24時間365日住民票とかを申請したり発行したりというのをね、消防署の窓口を使ってやったりしているんですよ。年間20人とか30人とかくらいで少ないです。
それでもコンビニと同じでみんな開いてて良かったって思われるんです。これはね、全国で初めて柳井市が始めたんです。
で、やってしまえば、なんてことはないんです。
でもね、公務員の社会というか役人の社会というのは他所がやらないことをやるのは怖いんですよ。
もし失敗したらどうするのか?自分たちで考えたら一番合理的なことだと思うんだけど、やろうと思ったら県や国にお伺い立てたりすることが、習慣になっているんです。
僕は、「他所でやったらやります、過去にやっていたらやります、っていうのをやめにしましょう!」って言ってるんです。
だからだんだん新しいことを始めるようになるんですよ。柳井市の職員というのは、僕はずいぶん感覚が変わってきたと思います。



それが市長になって一番良かったって思えることでしょうか?


嬉しいことはね。
打てば響くというのは人間社会で必要だと思うんですよね。
情報化社会になったんだけど、情報だけはみんな知っているんですよ。
頭の中で理屈だけはわかっているんだけど、動かないんですよ。
社会全体が打てば響くっていうことにならないと、僕はだめだと思うんですよね。
最近うれしいのは、6月11日から柳井市をきれいにする条例というのを新しく施行したんですよ。
まあ世に言うポイ捨て条例みたいなものです。
でね、市の職員の方が『お掃除のクラブ』というのを作ったんです。
で、僕にも誘いがあったから入会しましたけどね。
市役所の前庭だとか後ろだとか玄関先とか、みんな職員の人が昼休みに、20分間くらいボランティアっていうか時間出して掃除をやっているんですよね。
主体的に、そういうことをやり始めてくれるとうのは嬉しいですよね。条例が出来て市民にも呼びかけるんだからね。
役所の中の生活環境課がやるっていうんじゃなくて、職員も町をきれいにしましょうって言って、やるっていうのはいいことだなぁーって思うし、ほんと拍手を送りたいですね。



この10年間は、河内山市長にとっては何点だと思われますか?


そういう風土改革というのは僕は100点だと思う。
組織が変わるとき、強制して変わるというのではなくて、みんなで変わっていくっていうことができているということが僕は一番良かったなーと思います。
政策的には、僕はまだこういうことをやらなきゃいけないなぁーというノートと、市民とか企業とかから苦情を言われたノートと2つのノートを持っているんですよ。
やりたいなーって思っているのが、3冊分くらいあるんですよね。
その中で出来ているのは3割くらいでしょうからね。
まあ、そういう意味では、まだ本当にやりたいことはまだ出来ていないから30点で。
というわけで100点と30点をあわせて、平均して65点で。風土は変わったけど、それを今度は市民に目に見える形で、「いい市政になっているなぁー。」って思ってもらうためには、大学で言うと可ですね。良にはいっていない。
まあ、選挙で3回目も選ばれたから可くらいにはなっているでしょう(笑)
不可だったら落選しますしね(笑)



風土かえることで、一番大事だと思えること、リーダーシップとして大事なことはなんでしょうか?


リーダーって言うのはやっぱり、率先垂範って言ってね、みんなに「こうしようじゃないか」と言えば、自分もある意味で動いて自ら示していかないといけない。
いいだしっぺがやりだしっぺになるという率先垂範ということが1つ大事だと思う。
それともう1つは、リーダーというのは嫌われようが憎まれようが、本当にやるべきだということがあったなら、しつこく、ある意味では繰り返し言っていく。
それと自分にも厳しく、みんなに対しても仕事上は厳しくなきゃいけない。
『plan do see』とよく言いますよね。『Plan』のところは、意外とみんな出来るんですよ。
日本の企業だって役所だって、何とかの計画とか何だとかいっぱい作っているじゃないですか?
『Plan』は100あるけどね。
実行は半分くらいになって、その評価っていうのはほとんどしていないですよね。
やったらやりっぱなし。
そういう意味では簡単なようだけどね、やり出したら徹底的にやると。
率先垂範と、そういうしつこさと厳しさ。
それともう一つ大事なのは、市長は全ていつも正しいわけじゃないですから、違っていたら素直に変えることですよね。
中国の言葉で君子豹変という言葉がありますよね。立派な人というのは、変わるときには大化けするってことですよ。それが出来ないっていうことは頑固っていうんですよ。
柳井市は、僕は市長になってすぐお願いしたんですけど、「いいことは、市長に報告するのは3日後でも1週間後でもいい。しかし、悪いことは、この役所の正規のルートを使うか使わないかは別として、即座に報告してくださいよ。
事件、事故の場合もあれば、不祥事の場合もあるし、いろんなことがありますよね。
市民からこっぴどく、こういうことで苦情が来ましたとか。そういう悪いことはすぐ言ってくださいよ。」と。
最近は、それが非常にやりやすくなったのが、メールです。携帯のメール。
職員の人もさすがに、「すぐ言ってくれ。」っていっても、夜9時くらいに私のところに、自宅に電話してくるというのはちょっと躊躇してくるんですよね。
明日でいいんじゃないかとか、あるいはお休みの日とかっていうと週明けでいいんじゃないかと思うから。携帯のメールが出来たおかげで、みんないざというときに第一報というのはやり易くなりましたよね。これは、私にとっちゃ、i-modeっていうものを作った松永真理さんには、感謝しなきゃいかんわなぁ~。



それは職員の皆さんが市長に直接携帯で連絡を取るのですか?


持っている人はね。携帯持っている職員の人がいたら、「僕のアドレスはこうだから。」って言って教えてあげて、「送ってよ。」って言ってます。だから皆からいっぱい入ってくるんですよ。いざというときに、「会議中だろうが何だろうが何かあったらすぐにね」って伝えています。



それは早いですね。


ええ早いですよ。
それに抵抗感がないですよね。悪いことはストレートに、スピーディーに。まあそういう風土改革の話とかは山ほどありますよ。



この度市の方はインターン生を受け入れられますが、何故受け入れをされようと思われたのでしょうか?


それはね、先程の、私たちのやっていることに関する自己評価ですが、それがすべて正しいとは限りません。
外から役所というものをご覧になっていると、メディアを通じてお知らせすれば、メディアの主観というのが入りますよね。もちろん私たちが広報活動でやっているということは、我々としては意図があるわけですから、悪いことをそのまま広報しません。
そういう情報というのは、ストレートな情報、つまり1次情報ではないですよね。
僕は、役所の仕事というのは、なるべく1次情報でご覧になっていただき、評価をして頂きたい。
もう一歩、さらに自分たちの職場をよくし、それを通じて、よき政策を展開し、市民や納税者の人に利益を与えるようにするために、外部の目を入れることは有効な方策だと思いますね。
ただ、あらかじめ役所のことを良く知っていたり、特別な利害関係のある人が入ってみると、またこれが色眼鏡をかけて見ることになるんですよね。なるべくより素直そうな人というか、素直でありストレートな人。それはやっぱり若い人ということですよね。



市長としては、どのような学生に参加してほしいのでしょうか?


それはやっぱりこういう意図ですから、素直率直な方ですよね。別に率直に意見を言われたからといって、先ほども言いました通り、こちらも素直に受け止めますからね。
あとはやっぱり好奇心ですね。
何でも見てやろうとか何でも聞いてやろうとか。こんなこと市長に聞いたら失礼だとか、あんまり遠慮されることはないかな。



かりに好奇心をもって見すぎてしまったという事はないのでしょうか?


今のところ外に出して恥ずかしい話というのはないように仕事するというのが基本ですからね。
まあ、それは僕らが気づかないだけで実際にはあるかもしれませんよ。
そんときはこちらもギョッとして、改めるべきことがあれば改めていけばいいんじゃないでしょうか。
誤って改めざる、これを本当の過ちという。人間100%、無謬っていうか、まったく間違いがないというのはありえないですからね。
やっぱり素直に受け止めなきゃいけない。そうならないように、われわれは仕事をするわけだから、好奇心が多すぎても大丈夫です。
ж無謬…誤りの無いこと



では、最後に。河内山市長にとって『Japan Produce』とは何でしょうか?


日本というのは、自分の人生は自分で切り開く、とか自分の人生は自分で作る、とか自ら責任を放棄することなく自らの力を信じて決定し、実現するっていう力をもともと持っていると思うんですよ。
だけど、ここ最近をみると、人のせいにしたり、上手く行かなかったらへんに自信喪失したりしてるでしょ。
日本人の強さを、もう一回そういう遺伝子を刺激するっていうのが、僕たちの今からの仕事じゃないかな?って思っているんですよ。



僕たちと申されますと?


僕たちというのはね、政治関係者っていう意味合いと僕らが今生きているわれわれの世代と若い世代も含めてですよ。
これをね、私の仕事に絡めて言うとね、自分たちのことは自分で行う市民になりましょう。
自分たちの市の仕事っていうのは、国や県に頼る前にまず自分たちでやりましょう。
それで出来ないようなこととか、リスクがあまりにも大きすぎて、私たちが出来ないというようなことであれば、国にやってもらいましょうよと。
どうも、日本人は逆になっていてね。国がやってくれれば何とかなるわなって個人が思うわけですよ。自分がどうするっていうのはないんですよね。
だからね、僕にとって『Japan Produce』というのは、自己責任・自己決定・自己実現。強い日本を作るために、そういう国づくり・そういう人づくり・自治体作り、これをやりたい。それが日本の活力だからね。
『もっと私たち自らが強くなりましょうよ』と。



(インタビュー:2002-06)


1958.6.22 山口県柳井市に生まれる。
1981.3 早稲田大学法学部卒業。
1981.4 松下政経塾に2期生として入塾。
1987.8 松下政経塾に入職。
1992.8 山口県柳井市長選立候補のため松下政経塾退職。
1993 山口県柳井市市長に初当選。
1997 山口県柳井市市長2度目の当選。
2001 山口県柳井市市長3度目の当選。
2005.2.21 柳井市と大畠町が合併、新しい柳井市が誕生。合併後の山口県柳井市長選挙に初代市長として当選。
※プロフィールはインタビュー時のものです。

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