ジャパンプロデューサーインタビュー
Vol.004 [議会議員] 久保田 暁 堺市議会議員 「小さな頃、ウルトラマンになりたかった」
堺市議会議員
堺市議会 久保田 暁
政党 無所属
選挙区 大阪府堺市
初当選年 1995年
当選回数 2回(市議選2回)
市議会議員になろうと思われたのはいつですか?
議員をめざそう!と明確に考えたのは大学4年の就職活動の時ですね。
30社近くの会社を回ったけど、ことごとく落とされて。自分の存在価値について数ヶ月間悩んでいたことがありました。
その時「自分は社会に必要ない」と自己否定したり「自分の生まれてきた意味は何だろう」というような、自分自身のことについて真剣に考えたりしました。これまで自分が過ごしてきた時間を振り返ったりしながら。そんな時にでた結論が「地方政治の現場へ行こう!」でした。
どうして、政治家になろうという結論がでたんですか?
私は小さい頃、ウルトラマンになりたかったんです。
どうやったらなれるのかを、本気で考えていたくらい(笑)。
そして小学生の頃にテレビでエチオピアの難民の子供たちを見たとき、なんとかこの子達を助けたい!と思ったことがあって。それがきっかけで大学生の途中くらいまでは、実は国連をめざしていました。その間に相当なブランクもありましたけどね(笑)。
国連で働くことがウルトラマンに一番近い存在であると思ってたんです。
そして夢が叶い、大学生の時に実際に国連へ行くことができたのだけれど、そこでさまざまな壁にぶつかりました。学生の意見なんてほとんど聞き入れてくれない。サミット事務局や各国政府を見て、「学生(市民)と事務局や政府機関との架け橋がほしい!」と思ったし、タイやアフリカの貧困や開発の現場から人生をかけて、まさに命懸けで意見を言いに来ている学生を見て「オレは何しに来てんねん!世界を救うとかいう前に自分の足元を固めんとあかん!!」と思い、国連という場所にただのあこがれで来ているだけの自分が本当に嫌になったんです。
そして、あこがれていた国連で現実の壁にぶつかり悩んだことが、私なりの大きな「議員になる」という決断に繋がっていきました。
自分の可能性を信じて、世界中の誰もが代われない自分にしかできない役割を果たしたい。
そう感じたんです。余談だけどそうやって自分の進路を決めた瞬間、大手TV局の内定がでて運命のイタズラみたいなのを感じたのを覚えてますね(笑)。
久保田議員は、議員インターンシップの一番最初の受け入れ議員のひとりだと聞きました。
なぜ議員インターンシップを始めようと思われたのですか?
第一にナマの政治を学生に知ってもらいたかったというのがあります。そして次の人材を育てたかった。自分の後釜とかではなくね。と言うのも周りの政治家になりたいという学生ですら、メディアが伝える政治家や、大学で習った教科書通りのことしか話さなかったから。
でも、それは違う。政治家という職業は、政策の話ばかりをしているようなかっこいいものではなくて、ビラも撒くしゴミも拾う。半分はブルーカラー(肉体労働者)の仕事。
だけどその中に、いろんな人と接しお互いの人生に関わっていく喜びがある、とても感動の多い仕事なんです。それを学生に伝えたかった。
そして政治に対する学生のイメージを変え、一緒に喜び、いろんなものをシェアしていきたいと思う。そこから新しいプロジェクトが生まれたり、政策ができたりすることだってあると思うんです。
だから私のところに来てくれるインターン生には、私の「人生」に関わってほしい。私自身の生き様を見てほしいですね。そしてその後の人生で、一緒に何かすることができたなら、それは本当にすばらしいですね。
最後に。久保田議員にとってジャパンプロデュースとは?
実はあまり「日本をつくっていく」という意識はないんです。ただ私は日本人を全うしたいと思っています。なぜなら日本の文化の中にはたくさんの人々を、和(わ)していくものがひそんでいるから。
「和(わ)していく」というのはどういう意味かというと、それは人を和ませること。これは日本の素晴らしい文化です。
たとえば、レストランに行ってお茶がだされること。このようなサービスがあるのは世界で日本ぐらい。そしてその和のある日本文化を活かすことで、世界平和に貢献していきたいと考えています。
だから私は、身近な自分のまちや文化にもっと興味を持ってもらいやすいようにしていこうと思います。
高校時代はラグビー部、大学時代は空手部に所属。
その他にも学生時代に、学生環境NGO、テレビ朝日のAD、モデル、ウィンドサーフィンを経験。怒濤の就職活動を経て、安田火災保険会社の営業部に勤務。入社後1年で退社し、1995年4月の統一地方選挙に27で大阪府堺市にて出馬、見事当選する。現在2期目。
身長186cm、体重75kg、血液型B型。